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鹿角街道とは?

Posted By admin On 2012年12月18日 @ 21:25 In | No Comments

 鹿角街道は、南部盛岡藩領内の基幹道である奥州道中の脇街道で、江戸時代に南部盛岡藩によって整備されました。岩手県盛岡市から岩手県八幡平市を経て、秋田県鹿角市、大館市に至る道路で、ルートの大部分は今でも国道二八二号線として利用されています。

 鹿角街道は流霞道(りゅうかどう、ながれしぐれみち)とも言い、当時は、塩や穀物のほか、金のちに銅などの鉱物資源を、盛岡や江戸へ運搬するなど、人々の交流や物資の流通に大きな役割を果たしていました。

 一里塚や道標、旅人の供養碑など往時をしのばせる遺跡が残っており、保存状況が良好であることから、平成8年には文化庁から「歴史の道百選」に選定されました。

 盛岡から鹿角郡までの行程は約百㎞に及びます。盛岡城下の出入り口にあたる北上川(夕顔瀬付近)にかかった土橋を渡ると、そこで雫石(秋田)街道と分岐し、ここではじめて「鹿角街道」となります。
盛岡を出て最初の宿場町が田頭村(現西根地区)にありました。盛岡からの距離は約三十㎞ほどです。
田頭付近から国道二八二号線は西に迂回しますが、鹿角街道はそのまま北上し、寺田を通って七時雨山の峠を越えます。この峠が鹿角街道一の難所と呼ばれたところです。
 峠を越えると方向を西に転じます。ここからは再び国道二八二号線と重なり、荒屋新町、曲田、田山を通ります。現在の八幡平市境がある兄畑付近を過ぎると、奥羽山脈を米代川沿いに横断し、鹿角へ至ります。

 南部藩は江戸時代の初めに三戸にあった城を盛岡に移しました。鹿角街道の整備はその後始まります。この道には重要な意味がありました。それは鹿角地方には白根・立石・尾去沢鉱山といった金や銅を産出する鉱山が多くありました。特に尾去沢鉱山は戦国時代頃から金が多く採掘され始め、金の鉱脈はやがて尽きてしまいますが、一六六六年に銅鉱が発見され、その後は別子銅山(愛媛県)や足尾銅山(栃木県)と並ぶ全国でも主要な銅山となりました。江戸幕府は全国の銅山から銅を集め、中国やオランダに輸出するなど、銅は江戸幕府の経済を支えるものでした。南部盛岡藩からも鹿角地方の鉱山から多くの銅が納められ、鹿角街道はこれを運ぶ道として、重要な役割を果たしていたのです。



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