南部絵暦
江戸時代の中頃は全国的に冷害・凶作の続いた時代で、高冷地の田山地方も大きな被害をうけました。 そのころ、村の書き役を努めていた善八という者が農民救済のため、農業経営の目安にするために作った暦が田山暦とよばれるものです。 暦の絵は、当初は手書きでしたが需要の多くなった文化年間(1804〜18)の頃から、木活版木をひとつひとつ和紙に押してつくるようになっていきました。 1部の暦に270回も版木を押すので時間がかかり1日に十数部つくるのが限度といわれています。もともと発行部数が少ないこと、暦という性格上その年が過ぎれば廃棄されるもであることから、現存するものは極めて少ないです。
名称
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南部絵暦
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よみ
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なんぶえごよみ
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分類
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生活文化
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所在地
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下モ川原44番地
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指定状況
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県指定文化財(有形民俗)
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年代(区分)
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江戸中期
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